(1)金黒が映えるクールなお城・岡山城

(1)金黒が映えるクールなお城・岡山城

黄金に輝くシャチホコ&瓦と漆黒の黒壁

岡山県岡山市にある岡山城は、日本100名城70番目のお城。天守の壁に黒漆が塗られ、かつては烏の濡れ羽のような艶めきを放っていたことから、別名「烏城(うじょう)」、または「金烏城」とも呼ばれます。「金烏城」の「金」は、天守を飾る黄金のシャチホコや金瓦からきています。

岡山三大河川のひとつ旭川のほとりに立つ岡山城(写真提供:岡山県観光連盟)

岡山三大河川のひとつ、旭川のほとりに立つ岡山城(写真提供:岡山県観光連盟)

徳川家康時代の城は、当時の最新技術である耐火性の強い石灰の漆喰が塗られたことから “白い城”、豊臣秀吉時代の城は防腐剤の役割を果たす黒漆を塗られていたことから“黒い城”と呼ばれます。金箔瓦は織田信長の時代から使われていましたが、全国へ普及させたのは秀吉でした。

現在の天守の原型を造った宇喜多秀家は、豊臣秀吉のお気に入りでした。だからこそ、岡山城にはほかの城よりもたくさんの金のシャチホコや金箔瓦を飾ることができたのです。現在の天守は再建された外観復元天守ですが、岡山城は松本城や熊本城と並び、“豊臣イズム”を受け継ぐ代表的なお城といえます。

金箔瓦は信長没後、天下をとった秀吉が“信長の正統な後継者は自分だ”ということをアピールするため大阪城に大量に使用し、家臣たちもこれにならったそう

金箔瓦は信長没後、秀吉が大阪城に大量に使用し、家臣たちもこれにならったそう

金のシャチホコや金箔瓦は、平成8(1996)年の築城400年記念の際に内装や外装の改修とあわせて施された(写真提供:岡山県観光連盟)

平成8(1996)年の築城400年記念の際に内装や外装の改修とあわせて施された金のシャチホコ(写真提供:岡山県観光連盟)

全国でも珍しい多角形の天守

3層6階の堂々たる天守はよく見ると不等辺5角形をしています。天守に近づくと、天守台の上壁が折れ曲がり、1階部分が4角形ではないことが見てとれるはず。これは、織田信長の安土城の天主台を真似したためともいわれます。“自分こそが織田信長の正当な後継者である!”と大々的にアピールする秀吉のイズムがここにも見えるような気がします。

当時の天守は戦前に国宝に指定され、明治廃城令の取り壊しは免れましたが、昭和20(1945)年、岡山空襲によって焼失。昭和41(1966)年に再建されました。

石垣の下から見上げると、天守台や1階部分が多角形になっているのがわかる

下から見上げると、天守台と1階部分が多角形になっているのがわかる

はじまりは「石山」に築かれた砦

岡山城が最初に登場したのは室町時代といわれています。旭川の下流に大洲原という三角州が広がっており、岡山・石山・天神山という小高い丘がありました。岡山城は、これらの丘のひとつ「石山」に名和長年の一族・上神高直が築いた砦がはじまりといわれてます(諸説あり)。

中世以前の旭川下流。標高20mほどの3つの丘は、古くから城や砦として活用されてきた

中世以前の旭川下流。3つの丘は標高20mほど。古くから城や砦として活用されてきた

砦は「石山城」と呼ばれ、のちに備前国の国人・金光家が城主となりました。しかし、元亀元(1570)年、宇喜多直家が2代目城主の金光宗高を謀殺し、この地を支配下に置きます。

その後、直家のあとを継いだ宇喜多秀家が、城の本丸を石山と隣接する岡山に移し、豊臣秀吉のアドバイスを受けて石山城を取り込むような近世城郭・岡山城を築きました。石山城がいつから岡山城と呼ばれるようになったかは定かではありませんが、秀家の時代には城下町に浸透していたようです。

岡山城はその後、小早川秀秋を経て慶長8(1603)年に池田忠継が城主となり、その後幕末まで池田家が代々城主をつとめました。次は、城主たちに注目してみましょう。

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