(2)“戦国最強”といわれた難攻不落の城・小田原城

(2)“戦国最強”といわれた難攻不落の城・小田原城

関東を支配した北条五代

江戸時代より以前、小田原城の中心部は現在の小田原城よりもっと山側にあり、規模もはるかに巨大でした。

小田原城の前身は室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の神奈川県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城です。この城を北条氏(後北条氏とも)の祖・伊勢宗瑞(北条早雲)が攻め落としました。以後、北条氏はこの城を拠点に5代、およそ100年にわたって関東一円を支配する一大勢力となります。

戦国大名のパイオニア・伊勢宗瑞(北条早雲)

北条氏の初代当主・伊勢宗瑞(北条早雲)は謎多き人物です。近年の研究では、康正2(1456)年の生まれ、室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出身だったというのが定説。室町幕府の高級官僚だった宗瑞は、駿河国守護・今川義忠に嫁いだ妹から、今川家の家督争いの調停を頼まれます。この調停を成功させたことをきっかけに、興国寺城を与えられ、今川家に仕えるようになりました。

さらに、京都で勃発した細川政元のクーデターに巻き込まれる形で、反抗勢力の茶々丸(2代堀越公方)がいる伊豆国に侵攻。茶々丸を追放し、不在となった領主に代わり、領民を助ける善政を敷きました。武力だけでなく優れた政治手腕を発揮し、茶々丸の悪政に苦しんでいた人々の心をわしづかみにしながら伊豆国を手中に収めていったのです。
官僚から一城、一国の主へとのぼりつめていく宗瑞。後世になってこの「伊豆討ち入り」は、下克上や戦国時代の幕開けを象徴する代表的な事例のひとつとして語られるようになります。

宗瑞は検知や印判の使用を最も早く行なった戦国武将としても知られています(画像:Wikipediaより)

宗瑞は検知や印判の使用を最も早く行なった戦国武将としても知られています(画像:Wikipediaより)

相模の獅子・北条氏康の躍進

宗瑞の後に家督を継いだ2代目当主・氏綱は、小田原城を拠点に武蔵国、下総国、駿河国へと進出していきました。ちなみに小田原城は宗瑞が相模国を平定する前に落とされているのですが、その時期は定かではありません。

3代目当主・氏康の代では、世の中は本格的な戦国時代に突入。上杉謙信、武田信玄、今川義元などそうそうたる戦国武将たちとしのぎを削りながら、氏康は関東の旧勢力(古河公方、山内、扇谷上杉氏)などを打ち破り、北条家を関東No.1の勢力に押し上げます。また、氏康は戦いだけでなく、税制の改革や目安箱の設置など、領民のための政策も数多く打ち出した文武両道の名将としても知られていました。氏康の目安箱はのちに江戸幕府によって採用されています。

生涯36回の戦に出陣しながら、敵に背を向けたことがないといわれる猛将・北条氏康(画像:Wikipediaより)

生涯、一度も敵に背を向けたことがないといわれる猛将・北条氏康(画像:Wikipediaより)

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豊臣秀吉の天下統一

北条氏4代目当主・氏政、続いて5代目当主・氏直の時代、「天下布武」のスローガンを掲げ、中央集権型の国家を目指す織田信長が破竹の勢いで勢力を拡大していました。本能寺の変で信長が没したのちは、天下の趨勢は信長の意志を継いだ豊臣秀吉へ。
秀吉は九州・四国を平定し、西日本を統一した後、その目を東北・関東へと向けます。

天正13(1585)年に朝廷から関白に任命された秀吉は、天皇の権威を背景に全国の大名へ停戦を強要し、領土紛争の裁定は自分が行うと決めた「惣無事令(そうぶじれい)」を出しました。さらに臣従の意思を示すため、各地の大名に上洛するよう命じます。
これに対して北条氏は、当主ではなく氏政の弟に当たる氏規を代理で向かわせたり、2度目の上洛要請の返事をずるずる引き延ばしたりと、秀吉を軽視する態度を取り続けます。そして、天正17(1589)年、秀吉が真田氏の領地であると決めた名胡桃城に北条氏が攻め込む「名胡桃城事件」が勃発。秀吉はこれを「惣無事令」違反ととらえ、北条氏に対して宣戦布告を送りつけました。
秀吉の天下統一に向けた最後の大戦ともいわれる「小田原征伐」の始まりです。

左から北条氏政、氏直、豊臣秀吉(画像:Wikipediaより)

左から北条氏政、氏直、豊臣秀吉(画像:Wikipediaより)

史上空前の規模を誇った小田原征伐

秀吉の出陣命令に応じ、全国から動員された兵力は約16万(20万以上とも)。徳川家康、前田利家、織田信雄、上杉景勝・真田昌幸など、全国の有名武将が集結した戦国オールスターズ軍団で、その規模も史上最大といってよい数でした。
対して北条氏は、5万余の兵力を小田原城に集め、領内に張りめぐらせた支城と連携しながら、かねてより秀吉との戦うことを想定して備えていた「総構」で城を守る籠城戦を決意。

小田原城を“難攻不落の城”といわしめた鉄壁の守りに、さすがの秀吉も攻めあぐねますが、巧みな心理戦や圧倒的兵力によって包囲から約3ヶ月後に北条氏を降伏させます。この秀吉の小田原征伐には、秀吉が“一夜で築いた”という「石垣山城(太閤一夜城とも)」の出現をはじめ、たくさんのドラマがあるので、別の記事でまとめてご紹介できればと思います。

自分たちの力を過信し、秀吉という人物を見誤っていた氏政は、自分の命と引き換えに将兵の命は助けて欲しいと秀吉に嘆願し、切腹しました。天正18(1590)年7月、小田原城は開城。氏直は高野山に追放され、ここに五代100年続いた北条氏は滅亡します。秀吉は同年に奥羽も平定。ここに長きにわたった戦国時代が終わりを告げました。

秀吉が小田原征伐で築いた石垣山城跡。今も石垣が残っている

秀吉が小田原征伐で築いた石垣山城跡。今も石垣が残っている

くるかも?北条五代ブーム

弱肉強食、骨肉を争う戦国時代において、関東で長期政権を維持し、領民の生活の安定を目指す国づくりを行った北条氏。小田原市では、毎年北条氏を称え偲ぶ「小田原北條五代祭り」が開催され、五代城主を模した武者行列や市内学校の吹奏楽部・バトンチーム、陸上自衛隊音楽隊による音楽隊など総勢約1,700名にもおよぶパレードが市中を練り歩きます。

また、昨年から北条五代をテーマにしたNHK大河ドラマの制作を要望する署名活動が開始されているほか、作家・火坂雅志氏の未完の作品を伊東潤氏が引き継ぎ完結させた戦国歴史小説『北条五代』(上・下)が発売中。もしかしたら北条五代ブームが起きそう(?)な兆しがちらほらと見える(ような気がする)今、戦国という荒波の中に興り、滅んでいった一族と小田原城のたどった運命に注目してみるのはいかがでしょうか。

「北条五代を大河ドラマに!」 署名活動 実施中! (小田原市)
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/signature.html

『北条五代』(朝日新聞出版)
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=22394

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