(2)2023年大河ドラマ・徳川家康ゆかりの城たち

(2)2023年大河ドラマ・徳川家康ゆかりの城たち

迫力満点の石垣が魅力!浜松城

静岡県浜松市にある浜松城は、家康が29~45歳までの17年間を過ごしたお城です。こちらは2016年に定められた続100名城148番目のお城。昨年、家康入城450年を迎え、天守の展示内容などが大幅にリニューアルされました。

城跡は浜松市美術館や日本庭園を構える浜松城公園となっており、見所は昭和33(1958)年に再建された模擬天守、2014年に復元された天守門、野趣あふれる「野面積み」の石垣など。本丸南広場に立つ家康像は、ちょっと若い姿をしています。

自然豊かな浜松城公園。西側には竹林や山門、四阿などを備える日本庭園が広がる。家康が17年間過ごし、江戸幕府300年の原点となった浜松城は、歴代城主の多くが江戸幕府の要職に登用されていることから“出世城”とも呼ばれる(写真提供:浜松・浜名湖ツーリズムビューロー)

自然豊かな浜松城公園。西側には竹林や山門、四阿などを備える日本庭園が広がる。家康が17年間過ごした浜松城は、歴代城主の多くが江戸幕府の要職に登用されていることから“出世城”とも呼ばれる(写真提供:浜松・浜名湖ツーリズムビューロー)

浜松城の天守は資料がないため、どんな姿だったか確認できていない。現在の天守は、天守台と櫓台の上に建てられた模擬天守で、福井県坂井市にある丸岡城をモデルにしたといわれている

浜松城の天守は資料がないため、どんな姿だったか確認できていない。現在の天守は福井県坂井市にある丸岡城をモデルにしたといわれている模擬天守

木造瓦葺の天守門(2014年復元)。浜松城の石垣は、2代目城主・堀尾吉晴の時代に築かれた可能性が高いとみられており、自然石を加工せずにそのまま積み上げていく「野面積み」という技法で積まれている。天守門の左右には、巨大さによって城主の権威を示す巨石「鏡石」が埋めこまれている

2014年に復元された木造瓦葺の天守門。浜松城の石垣は、2代目城主・堀尾吉晴の時代に築かれた可能性が高いとみられており、自然石を加工せずにそのまま積み上げていく「野面積み」という技法で積まれている。天守門の左右には、大きさによって城主の権威を示す巨石「鏡石」が埋めこまれている

天守台の石垣には「猪目石」と呼ばれるハート型の魔除け石が埋め込まれているので探してみよう

天守台の石垣には「猪目石」と呼ばれるハート型の魔除け石が埋め込まれているので探してみよう

「若き日の徳川家康公の銅像」。手に持っているのは「勝草」のシダ(羊歯)。家康の兜印になっている

「若き日の徳川家康公の銅像」。手に持っているのは「勝草」のシダ(羊歯)で、家康の兜印になっている

浜松城は、明治の廃城令によって城廓や土地が民間に払い下げられ、三の丸、二の丸があった場所が住宅地になっていましたが、2018年から発掘調査が開始されています。昨年の9月、二の丸があったとされる元城小学校跡地で、本丸の石垣と堀の一部が発見されたほか、同年5月に江戸時代のものとみられる浜松城の絵図が新たに発見されており、お城の全容解明が進んでいます。

▼浜松市HPで「浜松城発掘通信」が読めます
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/bunkazai/hakkutsu/hakkutsu.html

生涯最大の敗北を味わう三方ヶ原の戦い

桶狭間の合戦後の永禄11(1568)年、信長が足利義昭を伴って上洛を果たし、義昭が室町幕府15代将軍となりました。しかし、義昭と信長はしだいに対立。義昭の呼びかけで築かれた「信長包囲網」には、甲斐・信濃・駿河を支配する武田信玄の名がありました。

歴戦のつわものにして老獪、戦国最強とうたわれた騎馬軍団を率いる“甲斐の虎”武田信玄の存在は、信長や家康にとって恐怖そのもの。信玄の侵攻に備えるため、家康は拠点を岡崎城から遠江国曳馬へ移し、かつての今川氏の支城・曳馬(引馬)城を改修・拡張し、城下町を整備しました。このお城が浜松城です。

 曳馬城の本丸は現在の浜松城とは別の場所にあった。曳馬城跡には通称“出世神社”と呼ばれる元城町東照宮が立っている

曳馬城の本丸は現在の浜松城とは別の場所にあった。曳馬城跡には通称“出世神社”と呼ばれる元城町東照宮が立っている

信玄が行軍を開始したのは元亀3(1572)年10月。城が次々と攻略されていく中、家康は浜松城に籠城し、信玄を迎え撃とうとしますが、信玄は“家康など眼中になし”とでもいうように浜松城を素通りします。これに激昂した家康は、信玄軍を追撃しようと城を飛び出し、三方ヶ原の台地から祝田(ほうだ)の坂を下ったところで急襲しようとしました。しかし、これは信玄の作戦だったのです。

頭に血がのぼった家康の前に現れたのは、陣形を整え、戦の準備万端の信玄軍。信玄の圧倒的な兵力と攻撃力を前に、家康は完膚なきまでに叩きのめされ、命からがら浜松城へ逃げ帰りました。この時の家康が受けた屈辱と犠牲は相当なもので、三方ヶ原の戦いは家康の三大危機のひとつとして後世まで語り継がれます。

家康はこの敗戦を忘れないようにと、顔をしかめ、憔悴しきった姿の自分の肖像を描かせ、生涯の戒めにしたといわれています。

徳川軍1,000人以上(2,000人以上とも)の死傷者を出した三方ヶ原の戦場跡に立つ「三方ヶ原古戦場跡」(写真提供:浜松・浜名湖ツーリズムビューロー)

徳川軍1,000人以上(2,000人以上とも)の死傷者を出した三方ヶ原の戦場跡に立つ「三方ヶ原古戦場跡」(写真提供:浜松・浜名湖ツーリズムビューロー)

家康の負け姿を描いたとされる「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、通称“しかみ像” と呼ばれ、徳川美術館が所蔵、レプリカが浜松城の天守に展示されている

家康の負け姿を描いたとされる「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は通称“しかみ像” と呼ばれ、徳川美術館が所蔵、レプリカが浜松城の天守に展示されている

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