(3)2023年大河ドラマ・徳川家康ゆかりの城たち

(3)2023年大河ドラマ・徳川家康ゆかりの城たち

駿府城で悠々自適な隠居生活

静岡県静岡市にある駿府城は、日本100名城41番目のお城。家康が75歳で亡くなるまでの晩年を過ごした城です。
駿河国(静岡県中部)はかつて今川氏真の所領で、家康が幼い頃人質生活を送った土地でもありました。現在の駿府城が立つ場所には今川館がありましたが、武田信玄の侵攻によって焼失。三方ヶ原の戦いの翌年に信玄が死に、武田氏が天正3(1575)年の長篠・設楽原の戦いによる敗北で力が弱まると、家康は武田に奪われた自分の領地を奪還し、さらに駿河国を手に入れ、駿府城を築城しました。

現在、駿府城跡には天守が残っておらず、石垣と堀があるのみ。本丸、二ノ丸部分は公園として整備されている

現在、駿府城跡には天守が残っておらず、石垣と堀があるのみ。本丸、二ノ丸部分は公園として整備されている

織田・徳川軍vs武田軍が激突した長篠・設楽原の戦いは、日本史上、初めて鉄砲が大量投入された革新的な合戦だった

織田・徳川軍vs武田軍が激突した長篠・設楽原の戦いは、日本史上、初めて鉄砲が大量投入された革新的な合戦だった

天正14(1586)年、浜松城から駿府城へ拠点を移した家康は、この時45歳。天正10 (1582)年に本能寺の変で信長が没しており、秀吉と家康の天下取りの戦いが水面下で始まっていました。
信長の意志を継ぎ、天下統一事業を進める秀吉に対し、家康は臣従の意思を示していましたが、秀吉にとって東海五カ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)を領有する家康は、最も警戒すべき存在。天正18(1590)年の小田原征伐によって北条氏を滅ぼしたのち、北条氏が支配していた関東を家康に与え、代わりに豊臣政権三中老のひとり、中村一氏を駿府城の城主に置きました。この家康関東移封には、家康を本拠地の三河や秀吉のいる上方から引き離す狙いがあったという説、武士の聖地・鎌倉や、名門北条氏の拠点・小田原がある関東を与えることで、家康の格を高め、豊臣氏の後ろ盾になってもらおうとしたなどの説があります。

家康の関東移封によって秀吉から駿河国を与えられた中村一氏(画像:Wikipediaより)

家康の関東移封によって秀吉から駿河国を与えられた中村一氏(画像:Wikipediaより)

“一富士 二鷹 三茄子”はメイドイン家康?

隠居後に家康が築いた駿府城は、「天下普請」と呼ばれる全国の大名を動員する一大築城事業によって造営された。城跡に残る石垣には、150種類300を超える刻印が見つかっており、これらは工事に携わった大名の家紋や職人のサイン、石の産地などを示すといわれている

隠居後に家康が築いた駿府城は、「天下普請」と呼ばれる全国の大名を動員する一大築城事業によって造営された。城跡に残る石垣には、150種類300を超える刻印が見つかっており、これらは工事に携わった大名の家紋や職人のサイン、石の産地などを示すといわれている

慶長6(1601)年、家康は関ヶ原の合戦に勝利し、天下を手に入れます。そして慶長10(1605)年、江戸幕府の将軍職を息子の秀忠に譲り、駿河に“隠居”。「天下普請」で改修・拡張した新生駿府城を拠点に、隠居とは名ばかりの実権を握ったまま国を影から操る「大御所政治」を展開しました。
家康が隠居先に駿河を選んだ理由は、「子供時代の思い出があるから」「江戸幕府に参勤する大名たちが自分に拝謁するのに便利な場所だから」「暖かくてお米が美味しいから」などといわれますが、なかには、「なぜ駿府に移るのか?」と聞かれた際、「駿府には富士山があり、鷹(愛鷹山とも)があり、初物の茄子がある」と自分の好きなものを答え、現在の初夢「一富士二鷹三茄子」に紐づけられたという説もあります。

左から美しい富士山を望める三保の松原、駿府城に立つ家康像、静岡市清水区の名産・折戸なす。家康は駿府城で大好きな鷹狩りや能楽などを楽しみながら余生を過ごしたという。また、折戸なすは家康に献上していたという記録が残っている(家康公像 (1) 、静岡県、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示 2.1)

左から美しい富士山を望める三保の松原、駿府城に立つ家康像、静岡市清水区の名産・折戸なす。家康は駿府城で大好きな鷹狩りや能楽などを楽しみながら余生を過ごしたという。また、折戸なすは家康に献上していたという記録が残っている(家康公像 (1) 、静岡県、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示 2.1〈http://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/〉)

当時の江戸城より大きかった駿府城の天守

現在、駿府城の跡地は駿府城公園として整備されています。城廓は明治の廃城令によってなくなっていますが、江戸時代(慶長期)に家康が築いた3重の堀を持つ輪郭式平城の面影を残しています。
内堀・中堀・外堀の3つの堀のうち、内堀と外堀の一部が埋め立てられていますが、中堀はほぼ当時のまま。そのほか、1989年に巽櫓、1996年に東御門、2014年に二の丸坤(ひつじさる)櫓などが復元されています。東御門・巽櫓は資料館になっていて、100名城スタンプの設置場所もこちらにあります。

左は上空から見た駿府城公園(出典元:国土地理院)、右は江戸中期〜末期に描かれた「駿府御城図」(国立国会図書館)。慶長期に家康が築いた駿府城は、内側から本丸、二の丸、三の丸と曲輪が広がっていく輪郭式城郭だった

左は上空から見た駿府城公園(出典元:国土地理院)、右は江戸中期〜末期に描かれた「駿府御城図」(国立国会図書館)。慶長期に家康が築いた駿府城は、内側から本丸、二の丸、三の丸と曲輪が広がっていく輪郭式城郭だった

左から枡形虎口になっている東御門・巽櫓、二の丸の南西の角を守る坤櫓、1990年の発掘調査で発見された本丸堀

左から枡形虎口になっている東御門・巽櫓、二の丸の南西の角を守る坤櫓、1990年の発掘調査で発見された本丸堀

駿府城公園内では2016年から天守の発掘調査が開始されており、2018年に慶長期の天守台・小天守、さらに天正18(1590)年に駿府城主となった中村一氏が築いたものとされる天守台が発見されました。
調査の結果、慶長期の天守台は西辺約68m、北辺約41m、高さ33.5mと、大阪城や名古屋城、当時の江戸城をしのぐ日本最大の天守であったことが判明(のちに3代家光の代で江戸城が日本最大になりましたが)。秀吉が築城を命じたとされる天正期の天守台からは、金箔瓦などが発見されており、調査を進めていけば若き家康が最初に駿河で造った駿府城の天守や、今川館の遺構も見つかる可能性があると、お城業界を沸かせています。
駿府城跡天守台発掘調査現場には、発掘現場を常時観覧できる見学ゾーンが設けられていますので、訪れた際はぜひ観覧してみましょう。

▼駿府城の天守台発掘調査情報を発信している「発掘情報館 きゃっしる」
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/castle-info/

駿府城跡天守台発掘調査現場。家康が築いたのは、富士山や駿河湾を一望できる5層7階建ての超巨大天守。当時の江戸城天守をはるかに超える高さだった。見学ゾーンからは家康の石垣と豊臣方の石垣を見比べることができる

駿府城跡天守台発掘調査現場。家康が築いたのは、富士山や駿河湾を一望できる5層7階建ての超巨大天守。当時の江戸城天守をはるかに超える高さだった。見学ゾーンからは家康の石垣と豊臣方の石垣を見比べることができる

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