迫力満点の石垣が魅力!浜松城
静岡県浜松市にある浜松城は、家康が29~45歳までの17年間を過ごしたお城です。こちらは2016年に定められた続100名城148番目のお城。昨年、家康入城450年を迎え、天守の展示内容などが大幅にリニューアルされました。
城跡は浜松市美術館や日本庭園を構える浜松城公園となっており、見所は昭和33(1958)年に再建された模擬天守、2014年に復元された天守門、野趣あふれる「野面積み」の石垣など。本丸南広場に立つ家康像は、ちょっと若い姿をしています。
浜松城は、明治の廃城令によって城廓や土地が民間に払い下げられ、三の丸、二の丸があった場所が住宅地になっていましたが、2018年から発掘調査が開始されています。昨年の9月、二の丸があったとされる元城小学校跡地で、本丸の石垣と堀の一部が発見されたほか、同年5月に江戸時代のものとみられる浜松城の絵図が新たに発見されており、お城の全容解明が進んでいます。
▼浜松市HPで「浜松城発掘通信」が読めます
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/bunkazai/hakkutsu/hakkutsu.html
生涯最大の敗北を味わう三方ヶ原の戦い
桶狭間の合戦後の永禄11(1568)年、信長が足利義昭を伴って上洛を果たし、義昭が室町幕府15代将軍となりました。しかし、義昭と信長はしだいに対立。義昭の呼びかけで築かれた「信長包囲網」には、甲斐・信濃・駿河を支配する武田信玄の名がありました。
歴戦のつわものにして老獪、戦国最強とうたわれた騎馬軍団を率いる“甲斐の虎”武田信玄の存在は、信長や家康にとって恐怖そのもの。信玄の侵攻に備えるため、家康は拠点を岡崎城から遠江国曳馬へ移し、かつての今川氏の支城・曳馬(引馬)城を改修・拡張し、城下町を整備しました。このお城が浜松城です。
信玄が行軍を開始したのは元亀3(1572)年10月。城が次々と攻略されていく中、家康は浜松城に籠城し、信玄を迎え撃とうとしますが、信玄は“家康など眼中になし”とでもいうように浜松城を素通りします。これに激昂した家康は、信玄軍を追撃しようと城を飛び出し、三方ヶ原の台地から祝田(ほうだ)の坂を下ったところで急襲しようとしました。しかし、これは信玄の作戦だったのです。
頭に血がのぼった家康の前に現れたのは、陣形を整え、戦の準備万端の信玄軍。信玄の圧倒的な兵力と攻撃力を前に、家康は完膚なきまでに叩きのめされ、命からがら浜松城へ逃げ帰りました。この時の家康が受けた屈辱と犠牲は相当なもので、三方ヶ原の戦いは家康の三大危機のひとつとして後世まで語り継がれます。
家康はこの敗戦を忘れないようにと、顔をしかめ、憔悴しきった姿の自分の肖像を描かせ、生涯の戒めにしたといわれています。