駿府城で悠々自適な隠居生活
静岡県静岡市にある駿府城は、日本100名城41番目のお城。家康が75歳で亡くなるまでの晩年を過ごした城です。
駿河国(静岡県中部)はかつて今川氏真の所領で、家康が幼い頃人質生活を送った土地でもありました。現在の駿府城が立つ場所には今川館がありましたが、武田信玄の侵攻によって焼失。三方ヶ原の戦いの翌年に信玄が死に、武田氏が天正3(1575)年の長篠・設楽原の戦いによる敗北で力が弱まると、家康は武田に奪われた自分の領地を奪還し、さらに駿河国を手に入れ、駿府城を築城しました。
天正14(1586)年、浜松城から駿府城へ拠点を移した家康は、この時45歳。天正10 (1582)年に本能寺の変で信長が没しており、秀吉と家康の天下取りの戦いが水面下で始まっていました。
信長の意志を継ぎ、天下統一事業を進める秀吉に対し、家康は臣従の意思を示していましたが、秀吉にとって東海五カ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)を領有する家康は、最も警戒すべき存在。天正18(1590)年の小田原征伐によって北条氏を滅ぼしたのち、北条氏が支配していた関東を家康に与え、代わりに豊臣政権三中老のひとり、中村一氏を駿府城の城主に置きました。この家康関東移封には、家康を本拠地の三河や秀吉のいる上方から引き離す狙いがあったという説、武士の聖地・鎌倉や、名門北条氏の拠点・小田原がある関東を与えることで、家康の格を高め、豊臣氏の後ろ盾になってもらおうとしたなどの説があります。
“一富士 二鷹 三茄子”はメイドイン家康?
慶長6(1601)年、家康は関ヶ原の合戦に勝利し、天下を手に入れます。そして慶長10(1605)年、江戸幕府の将軍職を息子の秀忠に譲り、駿河に“隠居”。「天下普請」で改修・拡張した新生駿府城を拠点に、隠居とは名ばかりの実権を握ったまま国を影から操る「大御所政治」を展開しました。
家康が隠居先に駿河を選んだ理由は、「子供時代の思い出があるから」「江戸幕府に参勤する大名たちが自分に拝謁するのに便利な場所だから」「暖かくてお米が美味しいから」などといわれますが、なかには、「なぜ駿府に移るのか?」と聞かれた際、「駿府には富士山があり、鷹(愛鷹山とも)があり、初物の茄子がある」と自分の好きなものを答え、現在の初夢「一富士二鷹三茄子」に紐づけられたという説もあります。
当時の江戸城より大きかった駿府城の天守
現在、駿府城の跡地は駿府城公園として整備されています。城廓は明治の廃城令によってなくなっていますが、江戸時代(慶長期)に家康が築いた3重の堀を持つ輪郭式平城の面影を残しています。
内堀・中堀・外堀の3つの堀のうち、内堀と外堀の一部が埋め立てられていますが、中堀はほぼ当時のまま。そのほか、1989年に巽櫓、1996年に東御門、2014年に二の丸坤(ひつじさる)櫓などが復元されています。東御門・巽櫓は資料館になっていて、100名城スタンプの設置場所もこちらにあります。
駿府城公園内では2016年から天守の発掘調査が開始されており、2018年に慶長期の天守台・小天守、さらに天正18(1590)年に駿府城主となった中村一氏が築いたものとされる天守台が発見されました。
調査の結果、慶長期の天守台は西辺約68m、北辺約41m、高さ33.5mと、大阪城や名古屋城、当時の江戸城をしのぐ日本最大の天守であったことが判明(のちに3代家光の代で江戸城が日本最大になりましたが)。秀吉が築城を命じたとされる天正期の天守台からは、金箔瓦などが発見されており、調査を進めていけば若き家康が最初に駿河で造った駿府城の天守や、今川館の遺構も見つかる可能性があると、お城業界を沸かせています。
駿府城跡天守台発掘調査現場には、発掘現場を常時観覧できる見学ゾーンが設けられていますので、訪れた際はぜひ観覧してみましょう。
▼駿府城の天守台発掘調査情報を発信している「発掘情報館 きゃっしる」
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/castle-info/