(2)金黒が映えるクールなお城・岡山城

(2)金黒が映えるクールなお城・岡山城

邪魔する者は皆殺し!宇喜多直家の城主時代

室町時代後期、金光家が治めていた頃の石山城(岡山城)は、“備えの厳重な館”くらいの規模の小さな城でした。石山城の立つ旭川下流域は、瀬戸内海に通じる水運の利便性があり、実り豊かな穀倉地帯。そこに目をつけたのが宇喜多直家です。

宇喜多直家は、備前国東部を支配していた浦上宗景に仕えていた戦国大名。幼い頃に祖父・宇喜多能家を暗殺され、不遇の少年時代を送りましたが、知略・謀略を駆使して備前・美作を支配するまでにのし上がりました。

戦国時代は下剋上や裏切りは当たり前の世界。しかし、自分の行く手を阻むものを銃で殺し、毒で殺し、色小姓を使って殺し、妻の父や娘の旦那まで関係なく暗殺・謀殺した直家は、松永久秀や斎藤道三と並ぶ「日本三大梟雄」のひとりに数えられるほどの悪人と伝えられています。

金光宗高も毛利氏と内通していると直家から言いがかりをつけられ、城の明け渡し、そして切腹に追い込まれました。

宇喜多直家の木像。直家は天正9(1581)年頃に岡山城で病死した。死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍であったという(画像:Wikipediaより)

宇喜多直家の木像。直家は天正9(1581)年頃に岡山城で病死した。死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍だったという(画像:Wikipediaより)

石山城を手に入れた直家は、およそ2年の歳月をかけて城の改修に着手します。現在の岡山城に比べれば規模は小さいものの、隅櫓や櫓門を構え、周辺には城下町も整備しました。以後、石山城は宇喜多氏の本拠地となります。直家が築いた石山城の本丸や遺構は現在の岡山城の下に眠っていると考えられていますが、その全容は明らからになっていません。

また、宇喜多直家は冷酷、無慈悲という面だけでなく、長年にわたって仕えてきた家臣を大切にしたり、復讐に燃える苦労人という一面もあり、見方によっては非常に魅力的な人物です。多くの小説や漫画の題材になっているので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

眉目秀麗なイケメン武将・宇喜多秀家

直家が亡くなった後、家督を継いだのは当時わずか8歳の宇喜多秀家でした。この時、宇喜多家は織田信長に臣従しており、信長没後は豊臣秀吉に従い、西の毛利家を監視する役割を務めています。

秀家は元服の時に秀吉の「秀」の字をもらうほど気に入られていました。その理由は、宇喜多家が毛利の監視役として役に立つから、また、秀家の父・直家が秀吉に徹底的に尽くしたためなどと考えられていますが、真相は明らかになっていません。

秀家は天正16(1588)年に前田利家の四女であり、秀吉の養女でもある豪姫を正室に迎え、外様大名の身でありながら豊臣(羽柴)家一門に加わります。

人望厚く、高身長で器量に優れたハイスペックな武将だった宇喜多秀家

人望厚く、高身長で器量に優れたハイスペックな武将・宇喜多秀家(画像:Wikipediaより)

岡山城の瓦の文様には、豊臣家の家紋である桐紋があしらわれている

岡山城の瓦の文様には、豊臣家の家紋である桐紋があしらわれている

石山城は前述した通り、秀家の代で本丸を岡山に移し、岡山城になりました。およそ8年がかりの大改修で、慶長2(1597)年に完成。秀家の父・直家が築いた本丸は二の丸内郭となり、毛利家のいる西側に濠や石垣を設けました。さらに手薄になった東側の防御を補うため、旭川の流路を城の北〜東面に沿うような形に変更し、天然の濠にします。

秀家はさらに各地から商人や職人を呼び寄せて城下町を整備し、岡山城下を領国経営の中心地にしました。現在、岡山市内最大の繁華街である表町商店街は、秀家が城下町の山陽道沿いに形成した商人街が基礎になっています。

表町南部商店街と西大寺町商店街が交差するサーカスドーム。古い時計台がある

表町南部商店街と西大寺町商店街が交差するサーカスドーム。古い時計台がある

岡山城の完成からわずか1年後の慶長3(1600)年。秀家は秀吉から五大老のひとりに任じられましたが、同年に秀吉が死去。慶長5(1600)年に関ヶ原の合戦が勃発し、秀家は東軍について敗北します。

その後、秀家は八丈島に流され、およそ50年の余生を島で過ごし、83歳で没しました。岡山城の城主期間はわずか9年でした。

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