江戸幕府開闢!今は皇居になっている江戸城
最後は、東京都千代田区にある江戸城です。日本100名城21番目のお城で、家康はこの城を拠点に江戸幕府を開きました。現在、江戸城跡の一部は皇居になっていますが、天守台や石垣、城門などは今も残っており、自由に散策できる東御苑や外苑などで大手門や天守台、伏見櫓などを見ることができます。事前予約が必要な皇居一般参観に参加すれば、皇居内の見学も可能。
また、飯田橋駅近くの牛込見附〜赤坂見附、虎ノ門駅の周辺にも外堀や石垣が残っているので、都内の散策がてら、江戸城の痕跡探しを楽しんでみてはいかがでしょうか。
3代まで造られた江戸城の天守
江戸城の天守は、初代家康、2代目秀忠、3代目家光の3度にわたって築かれ、秀忠・家光の天守が現在の天守とほぼ同じ位置にありました。家光時代の天守は高さ44.8m(または 51m)。家康の駿府城を抜く日本最大の天守です。
この天守は明暦3(1657)年の「明暦の大火」によって焼失し、すぐに再建計画が立てられましたが、造り直されたのは現在残っている天守台のみ。当時、復興に追われる幕府の実質リーダーを担っていた保科正之の「天守なんて時代遅れ、町の復興が最優先!」という声によって、天守は再建されないまま終わりました。
家康がつくった江戸の町
時を少し遡って天正18(1590)年、小田原征伐の恩賞として与えられた関東へ移封となった家康は、拠点の設置場所に江戸、小田原、鎌倉の3つの選択を迫られました。小田原には北条氏の堅城・小田原城があり、鎌倉は源頼朝が鎌倉幕府を開いた武士にとっての聖地。一方、当時の江戸は利根川、荒川、多摩川が流れる大湿地帯で、農業には向かず、度々大きな水害が起きる寒村でした。真っ先に選択肢から外したくなる土地です。
しかし、家康は江戸を選びました。この選択には、世の中がやがて戦ではなく商業中心の時代になり、海に面した江戸の水運を整備すれば経済的に発展すると判断した家康の先見の明があったとも、家康を警戒する秀吉の目を欺くためだったともいわれます。
天正18(1590)年、江戸に入った家康が見たのは、江戸“城”とは名ばかりの放置されボロボロになったあばらや。江戸城のはじまりは鎌倉時代からこの地を治めた江戸氏の江戸館、その後康正3(1457)年に築城名人・太田道灌が築いた城が前身でしたが、見る影もありません。しかも、目と鼻の先には現在の東京・八重洲あたりにまで迫った江戸湾(のちの東京湾)と葦の原が広がっていました。
家康はもともとあった本丸、二ノ丸に加えて、西ノ丸、三ノ丸、北ノ丸を増築し、城下町の建設を始めます。慶長6(1601)年に関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いたのちは諸大名に土木工事をさせる「天下普請」を号令し、水路や支派川、堤防などを次々と整備しました。
江戸の大改造は家康の死後も子孫に引き継がれ、町中に掘割と呼ばれる運河が張り巡らされます。これらの水路によって、舟での荷の運搬がスムーズになり、町全体が港のように機能することで、江戸の町は大きく発展しました。以後、徳川氏による治世は15代、約260年間にわたって続き、江戸城は幕府の中枢として機能し続けました。
いかがだったでしょうか。岡崎城、浜松城、駿府城、江戸城と、家康の人生に大きく関わった主要なお城4つを紹介してみました。家康にゆかりのある城は、ほかにも小牧・長久手の戦いで家康が使った小牧山城(愛知県小牧市)、家康が将軍時代に築き、のちに大政奉還の舞台となった二条城(京都府京都市)、家康が巨万の財宝を隠していたといわれる伏見城(京都府京都市)、九男・義直のため生涯最後に建てたという名古屋城(愛知県名古屋市)などがあります。
二条城、名古屋城は100名城、小牧城は続100名城に入っているお城なので、“家康しばり”でお城を巡ってみるのも楽しいかもしれません。