呪いに悩まされ続けた小早川秀秋
秀家が八丈島に流刑になったのち、宇喜多秀家に代わって城主となったのは、関ヶ原の合戦の際に西軍から東軍に寝返ったことで知られる小早川秀秋でした。
徳川家康から東軍の勝利に貢献した恩賞として備前国・美作国と岡山城を与えられた小早川秀秋は、岡山城と城下町をより近代化させるため、本丸や西側の外堀の拡張などを行います。
しかし、小早川秀秋は慶長7(1602)年、21歳の若さで急死。記録では、鷹狩の最中に体調を崩し、3日後に死去したとありますが、死因はアルコール性肝硬変というのが有力です。一説には関ヶ原の合戦で「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」という呪いの言葉を残したといわれる大谷吉継の亡霊に悩まされ、精神的に病んでしまったという逸話もあります。城主期間は約2年でした。
岡山城を最も長く治めた池田家
小早川秀秋は後継ぎがいないまま死去したため、改易により次の城主は池田輝政の次男・池田忠継が引き継ぎました。岡山城は4代城主・忠雄の時に廊下門や月見櫓、表書院などを築きましたが、以降は増改築を行うことはなく、ここに岡山城の全縄張りが完成します。
また、6代城主・綱政の時に旭川を隔てた本丸の北側の対岸におよそ4万坪の広大な日本庭園が造園されました。施工期間はゆうに14年。この庭は現在「岡山後楽園」と呼ばれ、水戸の偕楽園や金沢の兼六園と並ぶ「日本三名園」のひとつに数えられています。